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江戸時代は、将軍を中心に世の中が回っていました。
江戸時代が15代264年に亘って平和な時代だったのは、将軍のバトンタッチが内戦に発展するような大きな問題無しに行なわれたため。
そこで、江戸の将軍について調べてみました。
   
初代家康から15代慶喜に到る系図を調べてみました。

左肩には没年齢を右肩には男女合わせた子供の数を記しています。
  ここをクリックすると拡大します。



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  ■初代家康
家康の時代の大名の寿命を家康と比較すると、こんな事が分かる。
いかに家康が長寿であったか。
チャンスを待って天下を手に入れるために長寿がいかに必要だったか。
その事を家康は認識していて、自ら健康に注意しいかに長寿に努めたか。
特に子供の死亡率が高かったので、子供を沢山作る事がお家繁栄のためにいかに大切だったか。

今川義元 43歳(戦死)
武田信玄 53歳
上杉謙信 48歳
織田信長 49歳(戦死)
明智光秀 59歳(戦死)
豊臣秀吉 63歳
前田利家 62歳
山内一豊 59歳
伊達政宗 69歳

志半ばで死んだ武将が多い中、徳川家康の75歳は結果的に天下が転がり込むための絶対条件だったし、本人もその事を強く認識していた。
徳川15代の将軍の没年齢を比較しても、家康以上に長生きしたのは15代の慶喜の77歳だけである。
明治時代になり、医学や衛生面が良くなり、また慶喜も大政奉還後、表向きの役職を離れ、勝海舟の監視の下、趣味三昧の余生を送った事を考えると、激動の時代に徳川時代の基礎を築いた家康の75歳は際立っている。

秀吉と対決する事になっても、一旦は家臣となって、秀吉の死を待つ事が出来たのも、健康に対する自信と、秀吉の生活ぶりを見たうえでのしたたかな計算があったと思う。

家康は細く長く生きのびた訳ではない。
関ケ原の合戦では59歳にして東の総大将となり、雷鳴のような大声で檄を飛ばしたと記録にある。
また、19人の子供をもうけ、60歳で19人目を生ませている。

こんな元気は何処から来るのだろう。

家康は人質時代、今川義元が美食と運動不足で、馬にも乗れず輿で移動した程ぶよぶよだった姿を見たり、上杉謙信、武田信玄が病気で無念の急死をしたり、天下を取った豊臣秀吉が美食、運動不足、過淫で、身を持ち崩して、死んで行った姿を見て反面教師とした。

幼少から身体を動かすのは好きだったようで、刀術、槍術、弓術、馬術、鉄砲、水泳に熱心だった。
69歳にして川で泳いだという記録が残っている。
若い頃から鷹狩で野山を駆け回り、70歳を過ぎるともっぱら鷹狩りに興じた。

美食をさけ、玄米に大豆味噌を中心とした粗食に、八味地黄丸等の精力剤を好んで食した。

健康に関する知識には貪欲で、薬草を自ら調合したのは有名な話だ。

自らもタバコを吸わず、度々禁煙令を出したと記録にある。
酒も自ら好んで飲む方ではなかったようだ。

家康の長寿は偶然ではなく、自ら作ったものだった。

大阪夏の陣冬の陣の翌年、胃がんの為75歳の生涯を閉じた。

 

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■2代秀忠
2代将軍秀忠は家康の三男として生まれた。
長男の信康は信長に自害させられ、次男の結城秀康も秀吉の養子になったので、三男の秀忠が家督を継ぐ事になるのだが、秀吉が生きているうちは秀吉に振り回される事になる。
秀忠の秀は元服の時秀吉からもらったものだし、16歳の時、お市の方の三女で22歳のお江与を押し付けられる。
お江与は2度の離婚歴がある気の強い嫉妬心の強い恐ろしい女性だったようだ。
秀忠の側室が何人かみごもったが、お江与が堕胎させたらしい。
 
お静という側室がみごもったがお江与におろすように強要された。
お静は身の危険を感じて、大奥を逃げ出し隠れて男子を産んだ。
後に男子は保科正之と名乗り3代家光と4代家綱の後見役として徳川家のために活躍する事になる。

しかし、お江与を恐れた秀忠は生涯保科正之には会わなかった。
家康の陰に隠れて印象の薄い秀忠であるが、全国諸大名39家を改易して、徳川家の権威を確立した。
秀忠は立派な体格で鉄砲の名手だったと記録にある。

父譲りの健康な身体で大した病気もしていないが、偉大な父と恐ろしいお江与の方にストレスを感じ続けた生涯だったようで、53歳の時胃がんを発病し翌年54歳で生涯を閉じている。
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■3代家光
2代秀忠の正室お江与の方は2男5女を生んだ。
男子は長男竹千代と次男国松である。
竹千代は病弱で小心、無口、愚鈍な子供だったが、国松は色白で可愛く活発で利発な子で
江与の方は竹千代を無視し、国松を溺愛したと言われている。
親の愛が得られない竹千代は益々ひねくれた性格になっていった。
それに引き換え、弟国松は見栄えもよく利発で家来の信頼も厚かった。
ついに江与の方は弟国松こそ次期将軍にふさわしいと言い出したが、織田信長の姪で気の強い江与の方に2代秀忠は憂いたが表立って反対する事も出来なかった。

やがて次期将軍は弟国松に決まったと言う噂になり、国松の身辺は益々賑やかに、竹千代の身辺は益々寂しくなっていった。

その時立ち上がったのが竹千代の乳母である春日野局であった。
春日野局は駿府に出向き家康に直訴した。

鷹狩に事寄せて江戸に出向いた家康は竹千代と国松を呼んだが、竹千代を上段に呼び寄せ国松が上段に上がるのをたしなめた。

言葉遣いにも差を付けて、竹千代が次期将軍である事を家来の前ではっきり示した。

長子が家督を継ぐ事が儒教の教えであり、災いを避ける最善の方法と家康は思っていたのである。

家康が没する半年前の事である。
 
国松は15歳で元服し、忠長となり大大名となるが次第に素行が悪くなり、改易されて高崎城に幽閉され、28歳で切腹する。
竹千代は17歳で元服して家光となり20歳で3代将軍になる。

参勤交代を含む諸士法度、旗本を中心とする直轄軍の再編、老中、若年寄、奉行、大目付の制定、鎖国体制など、徳川時代の制度の殆どが家光の時代に作られた。

徳川時代の基礎を築いた名将軍と言われる所以であるが、病気と縁の切れない将軍でもあった。

25歳で脚気、26歳で疱瘡を患い顔にはひどいあばたが残った。29歳で腫れ物、30代の初めからうつ病、40代には高血圧による頭痛に悩まされ。
43歳でマラリヤ三日熱に。
48歳で脳出血で急死した。

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■5代綱吉
4代家綱は家光の死後11歳で将軍になったが、病弱で、発育障害も疑われている。子供も無く、40歳で病気を発病して数日で急死している。

実は5代将軍には2人の候補がいた。
家光の4男綱吉と、有栖川宮幸仁親王で、宮家から将軍を迎えるという前代未聞の選択肢であった。

春日局の養子でもあった堀田正敏の働きで、将軍職から徳川の血筋が絶える危機は回避され、家光の4男綱吉が5代将軍になった。
この功により、綱吉は堀田正敏を大老に抜擢して政治を任せた。

しかし、融通の利かない堀田正敏が恨みをかって暗殺されると、柳沢吉保らのご用人を回りに集め、閣老をないがしろにし、生母桂昌院のわがままにも翻弄されて、政治はみだれてぃった。

綱吉がマザコンであったのは有名な話だが、生母が八百屋の娘という身分の低さにもコンプレックスを抱いていたと言われている。
そのため、生母に高い位をもらえるよう朝廷に働きかけていた。
その朝廷の勅使を迎える儀式の日に浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかって、せっかくの儀式を血で汚したので、逆上した綱吉は詮議もせずに即刻浅野内匠頭を切腹させた。

もっと冷静に処置していれば赤穂浪士の討ち入りは起こらなかったと思われる。

翌年生母桂昌院は従一位という高い位をもらった。
綱吉に世継ぎは生まれなかった。
世継ぎが生まれるようにと祈祷僧の進言で定めたのが「生類憐れみの令」であり、天下の悪法として、歴史に残る。

結局兄綱重の子を養子に迎え6代将軍を継がせる事と決めた。

綱吉は身長が124センチしかなかったと言う有力な説がある。
そのコンプレックスを克服するためか、儒学に没頭し幕臣たちに度々(200回も)講義をしたという記録がある。
同じく自ら能を舞い、毎月のように興行するほどの熱の入れようだった。

63歳の時「はしか」にかかりあっけなく没する。
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■8代吉宗
秀忠から5代目、7代将軍家継が8歳で夭折して、徳川宗家は途絶えてしまう。
「宗家に子のなき時は、御三家より将軍にふさわしき者を選ぶべし」と言う家康の遺言どおり、尾張、紀伊、水戸の御三家から、8代将軍が選ばれる事になった。
水戸家の綱条は既に62歳で高齢、尾張家の継友は尾張家5代目吾郎太亡き後6代目になったが、5代目の実子ではなく叔父にあたり、家康からの血筋は吉宗のほうが近いとして、吉宗が8代将軍に選ばれた。

その後、吉宗の血筋は14代将軍家茂まで続くことになる。
吉宗を強運の持ち主と言う人がいます。
父光貞、兄綱教、頼職の三人が4ヶ月の間に立て続けに急死し、吉宗が紀伊家の藩主になりました。
7代将軍家継が8歳で夭折した時、御三家筆頭の尾張家から8代将軍が選ばれるはずだったが、その3年前、尾張家の藩主、吉通(25歳)、吾郎太(10歳)が3ヶ月の間に立て続けに急死し、吉宗より家康に近い血筋がいなくなっていたのです。

1716年、8代将軍になった吉宗は次々に改革を断行します。
まず、側用人に任せた政治から将軍自らが行なう親政に復した。

水野忠之を老中に任命して財政再建を始め、官僚制度改革、司法制度改革、江戸町火消しを設置しての火事対策、目安箱の設置、小石川養生所の設立などの、享保の改革を行なった。
また、米の価格安定に苦心し、米将軍とも言われ、名君と讃えられています。
蛇足ですが、
江戸の三大改革の後二つ、寛政の改革を行なった松平信定は吉宗の孫にあたり、
天保の改革を行なった水野忠邦は吉宗が登用した水野忠之の子孫である。
 
吉宗は家康を崇拝し、風貌が家康に似ていると言われるのが何より嬉しかった。

そのため、武芸を重んじ、鷹狩を好み、自ら質素倹約に努め、着物は木綿、食事は朝夕の二回とし、献立も「一汁三菜」とした。この質素倹約と武芸の奨励によって、武士たちの精神を引き締めと言われている。

将軍の中でもトップクラスの68歳まで生きられたのもその成果と思われる。
 
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■9代家重
8代吉宗が堂々たる名将軍と評判であったのに対し、その子9代家重はダメ将軍の汚名を着せられている。

家重は脳性まひであったらしく、言葉もお側付きの一部の人間にしか理解できず、通訳が居ないと、自分の意思が伝わらない有様であった。

運動機能に障害があったので、体格も貧弱で鷹狩も御前試合の記録もない。

頻尿や尿漏れに苦しんだと記録に残っている。

4歳年下の次男田安宗武は、14歳で論語20篇を暗唱して見せる程聡明で、立派な体格もしていた。
8代吉宗も次男に後を継がせたいと悩んだが、長子相続の原則を破れば悪影響は多大であると判断して家重に後を継がせた。

家重も知能が劣っていたわけでは無い様で、政治を混乱させたわけでもないし、将棋の腕前は一流だったと記録にある。
10代家治も授かっている。

家治に将軍職を譲って大御所になった後、最後は尿毒症により51歳で没している。


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■11代家斉
10代家治には2人の男子がいたが、次男貞次郎は3ヶ月で早世し、世継ぎ家基も18歳で鷹狩で急病になり他界した。
そこで急遽一ツ橋家から9歳の家斉を養子に迎えた。
家斉が15歳の時、10代家治が他界し、11代将軍となる。
将軍になると、田沼意次を廃して松平定信を老中に任じて、寛政の改革を行い賄賂をなくし綱紀を粛清した。
しかし、次第に松平定信とそりが合わなくなり解任、松平信明に任せていたうちは良い政治が出来ていたが、松平信明の死後は豪奢な生活にうつつを抜かし、その結果政治は腐敗した。

賄賂が横行し、貨幣を改鋳し、乱発しインフレを起こしてしまった。

大塩平八郎の乱が起きる程世の中は悪くなってしまった。
自分が将軍になれたのは、10代家治に子供が少なかったからだと思い、自分は子供を沢山作ろうと決心する。
そして57人の子供を生ませている。
しかし、その内32人は5歳を待たずに早世している。
乳幼児の死亡率が当時いかに高かったか分かる。

因みに今日本の乳幼児の死亡率は世界一低い。
 
これだけ沢山の子を相当の持参金付きで養子に出した。

特に尾張家には4回にわたって子女を押し付け、尾張家の家系は複雑怪奇になってしまった。

家斉は類稀な健康体で、オットセイ将軍と言う人もいる。

69歳で殆ど老衰で死んだが、69歳は慶喜、家康に次ぐ長命であった。 

しかし、将軍在位50年の間に将軍家の財政は相当悪化してしまった。
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■13代家定
12代家慶は11代家斉に次ぐ子沢山で29人の子を儲けた。
家定はその4男として生まれたが、3人の兄たちは早世して家定が13代将軍になる。
しかし、9代家重と同じく脳性まひであったらしく、その症状を示す記録が残っている。
アメリカ公使ハリスと会見したのは家定だが、その時の家定の様子がハリスの日記に残っている。
脳性まひの人が緊張して言葉を話そうとする時に生じる不随意運動をしたとある。
徳川斉昭の手記にも家定が人と会うのをうるさがり、何事にも理解力が無く、異国船のことなど全く理解してないようだと記録している。
家定の正室任子は子も無く若くして病死したので、老中安部正弘は島津家から正室を迎える事をもくろんだ。
11代家斉の正室が島津家出身で子沢山だったからと言われている。
選ばれたのは島津家の分家の島津忠剛の娘で、将軍の正室には身分が低すぎると言う反対を押し切るため、藩主で従兄・斉彬の養女になったり右大臣近衛忠煕の養女になって、身分を上げて嫁いだと言われる。

それがNHK大河ドラマの篤姫である。
21歳で嫁いだときには家定は重い脚気にかかって結婚生活が出来る状態ではなく、2年後に35歳で他界する。
篤姫は島津に帰るよう促されるが、天璋院となって江戸に残り、後に江戸城の無血開城に一役かったり、行き場のなくなった大奥の女中たちの面倒をみたりする。
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■15代慶喜
江戸時代の幕引きをしたことで知られている。
もし、慶喜が徹底的に討幕軍と戦ったら、日本は内戦状態になりヨーロッパ諸国の餌食になっていた可能性が高い。
慶喜の大政奉還は歴史的に正しい選択だった。
慶喜は初めて水戸家から将軍になったが、御三家の中でも水戸家は徳川の本流からは一番離れている上、母親が有栖川家という皇族の出であったことから、朝敵になるのを恐れ、すんなり大政奉還をしてしまったと思われる。
若い頃13代家慶に家康の再来と見込まれるほどの才覚があったが、家康同様健康にも気を使っていたようで、身体に悪いものは食さなかったし、外出の際は弁当持参で用心したそうだ。
暗殺者に用心して、寝所に工夫をしていたとも言われている。

勝海舟が相談役、目付け役で、10男を勝海舟の養子にしている。

趣味人として有名で、油絵、カメラ、囲碁、刺繍、投網、猟銃、乗馬が有名だが、毎日弓を3時間で100本から150本射ていたのはあまり知られていない。
これは死んだ歳までやっていた。
身体を動かし、暴飲暴食をせず、用心深く生活する。
家康同様長生きして、15代将軍中最も長命の77歳まで生きたのである。

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