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■5代綱吉 |
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4代家綱は家光の死後11歳で将軍になったが、病弱で、発育障害も疑われている。子供も無く、40歳で病気を発病して数日で急死している。
実は5代将軍には2人の候補がいた。
家光の4男綱吉と、有栖川宮幸仁親王で、宮家から将軍を迎えるという前代未聞の選択肢であった。
春日局の養子でもあった堀田正敏の働きで、将軍職から徳川の血筋が絶える危機は回避され、家光の4男綱吉が5代将軍になった。 |
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この功により、綱吉は堀田正敏を大老に抜擢して政治を任せた。
しかし、融通の利かない堀田正敏が恨みをかって暗殺されると、柳沢吉保らのご用人を回りに集め、閣老をないがしろにし、生母桂昌院のわがままにも翻弄されて、政治はみだれてぃった。 |
綱吉がマザコンであったのは有名な話だが、生母が八百屋の娘という身分の低さにもコンプレックスを抱いていたと言われている。
そのため、生母に高い位をもらえるよう朝廷に働きかけていた。
その朝廷の勅使を迎える儀式の日に浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかって、せっかくの儀式を血で汚したので、逆上した綱吉は詮議もせずに即刻浅野内匠頭を切腹させた。
もっと冷静に処置していれば赤穂浪士の討ち入りは起こらなかったと思われる。
翌年生母桂昌院は従一位という高い位をもらった。
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綱吉に世継ぎは生まれなかった。
世継ぎが生まれるようにと祈祷僧の進言で定めたのが「生類憐れみの令」であり、天下の悪法として、歴史に残る。
結局兄綱重の子を養子に迎え6代将軍を継がせる事と決めた。 |
綱吉は身長が124センチしかなかったと言う有力な説がある。
そのコンプレックスを克服するためか、儒学に没頭し幕臣たちに度々(200回も)講義をしたという記録がある。 |
同じく自ら能を舞い、毎月のように興行するほどの熱の入れようだった。
63歳の時「はしか」にかかりあっけなく没する。 |
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