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【今、風呂敷が新しい!】最近の和柄ブーム、「洋服に合う和小物」が流行しているのはご承知の通り!そんな中でも日本古来のアイテム、風呂敷が実はひそかなブームを起こしてるって知ってましたか?

最下部に江戸の香りの風呂敷を展示しました。御覧ください。




























































































































江戸時代には、現代の膨大なゴミを排出する生活とは遠く遠くかけ離れた生活がありました。そこにあったのは、モノを繰り返し大切に使い資源を生かす人々の習慣でした。少しでもこうした精神を現代に生かしていきたいという思いを込めて、江戸時代の生活を調べてみました。
   
 江戸には当時世界一がいくつも有りました。人口は西暦1800年120万人が暮らす世界一の大都市でした。当時第2位のロンドンが90万人、3位のパリが60万人、ニューヨークにいたってはまだ6万人でした。(日本全体では1600年1227万人、1720年3128万人でそれ以降1873年3330万人までほとんど増減なしだった。)
 水道設備も世界一でした。時代劇でよく見る長屋の井戸は地下の木管の中を流れる水を、木管に開いた穴からくみあげる井戸だったのです。神田川、井の頭池、玉川などを水源に高低差を利用して木管の中を川のように流しました。
 使われず川に落ちる水は船で受け取って、水の便の悪い地域に運んで再利用した。
 当時の江戸の60%の人がこれで生活していました。1年中1日中使えるこの水道設備は当時世界に無いものでした。唯一ロンドンにも水道設備はあったものの、週3日、1日7時間給水でした。

 世界一清潔な大都市でした。ロンドン、パリでは「おまる」にとった排泄物を道路に投げ捨てていました。それを下水にはき寄せて川に流していたようで、道路は至る所汚物だらけ、テームズ川もセーヌ川も異臭を放つ猛烈などぶ川でした。(明治の初め頃まで隅田川の屋形船では船から川の水を汲んでお湯を沸かしたと言う記述がある。)

 江戸では、排泄物は便所から汲み取られ堆肥の材料として、高額で取り引きされるほど大切にされていました。 したがって、道路を汚すことは少なかった様です。
 下水に流したものは洗濯の水と、米のとぎ汁であるが、ほとんどが川に流れ込む前に大地にしみ込んでしまったとある。洗濯はと言うと、石鹸は高価で使われず、灰やムクロジなど環境に良いものが使われていました。しかも洗濯や炊事に使った水は、拭き掃除に使い、最後は畑や植木にやったり、打ち水するなど徹底的に使いまわす事が多かったので、量も現代よりはるかに少なかったと思われる。
 
 ロンドンやパリを知る外人は江戸の街の清潔さ、よく入浴し、粗末だがよく洗濯された着物を着る江戸の人たちの清潔さに驚嘆したそうです。

 寺子屋による初等教育の就学率の高さは、当時群を抜いて世界一だった。

 1850年頃の江戸の就学率は農村部まで入れても70〜85%と推定されている。それに比べ1837年ころイギリスの大工業都市で、20〜25%。革命後のフランスでは1793年に初等教育を義務化したが、10〜16才の就学率は1.4%だった。ロシアでは1920年でも
20%だった。
 しかも、幕府には文部省の様な部署は無く、お上の計画にのっとって作られたと言うよりは、庶民の間で自然に出来ていったシステムと思われる。

 現代のような画一的な教育ではなく、独りずつのレベルに合わせた理想的な個人指導だったようだ

  さらに驚くべきことに、100万を超えるこの大都市に、現在の警察官にあたる与力、同心は24人しかいなかった。

 現代社会が随所でシステム障害を起こしている今、こんな素晴らしいシステムが二百数十年間も続いた、江戸を3つのテーマから調べてみました。

1、江戸はソーラー都市
2、江戸はリサイクル都市
3、江戸はボランティア都市
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  ■江戸はソーラー都市
 江戸は太陽のエネルギーを様々な形に変え、その恩恵を最大限に受け、化石燃料に頼らないソーラー都市だった。

 生活に必要な燃料は武蔵野に広がるクヌギ、コナラなどの雑木林から採れる薪や木炭が使われました。

 もともと武蔵野は、奈良時代には万葉集にも詠まれているように、照葉樹の密林だった。その豊富な薪で製鉄の大工業地帯があったという記録がある。

 8世紀に高麗からの渡来人が入植すると、「火田法」(焼畑農法)により、森林は焼かれ放牧地や農地に変わっていった、一部水の便が良いところは人口も増え繁栄したが、全体はススキの原と成り果ててしまった。本格的に開発されたのは、徳川家康の時代であった。
 家康の入国以来、神田上水、玉川上水の開発によリ農業用水が確保されると、武蔵野原野は開発が進み、享保年間(1716〜1736)には武蔵野原野は完全に消滅した。
 農家は、防風林として、堆肥の材料に落ち葉を使うため、薪をとるため、クヌギやコナラを植林し、20年〜30年で一人前の雑木林になった。武蔵野の面積の20〜30%はこうした雑木林となり、江戸の燃料の供給源となった。

 江戸時代には九州ですでに石炭が掘られ、新潟でも石油や天然ガスが採掘され,燃料や照明として使われていましたが、江戸の市民生活はもっぱら、薪と木炭、それに木炭の粉をふのりや海草で固めた豆炭を、煮炊き、火鉢やこたつによる暖房に使いました。 

 現代の枯渇寸前の化石燃料と違い、太陽エネルギーを20年〜30年蓄えては使うことで、長期に継続可能なエネルギーシステムとなった。

 明かりはアブラナから採ったナタネ油が使われ、石油が使われるようになるのは明治になってから1880年以降でした。太陽エネルギーを1年間アブラナに蓄えて明かりに使うソーラー照明です。
 櫨(はぜ)の木を原料に蝋燭も作られたが、高価であった。

 綿、木綿、絹などの衣類も植物や蚕を利用した1年物のソーラー利用資源でした。
 
 今なら大部分がプラスチックで出来ている生活用品の素材も、1年間太陽エネルギーを蓄えて出来る、藁、竹、萱、和紙などでした。
 特に藁は米と同じくらいの量が採れるから、国民1人当たり150kg位が使えたので最大の生活用品の素材であった。
 和紙の原料の楮で、1年間に使ったのは一部の皮だけで、木は20〜30年間使い続けることが出来ました。また、1度作られた和紙は「洋紙百年、和紙千年」と言われる程耐久性にすぐれていました。

 今、ヒートアイランド現象対策のひとつとして、屋上緑化が少しづつなされています。
 実は江戸は世界一緑豊かな都市だったのです。(最近の研究で、面積の半分以上が農地や緑地だったらしい。) 
 樹齢200年のブナは8トンの保水力があると言われています。ブナに限らず、他の植木でもたっぷり水を蓄え、雰囲気の温度調整をし、光合成により空気をきれいにします。
 また、緑は心理的にも有益です。
 アメリカで自殺者の多い橋を緑色に塗り替えたら、てきめんに減ったと言う記録があります。
 
 染井から巣鴨にわたって広大な植木村があり、江戸の植木の供給地となっていました。
 1860年染井の植木村を訪れたイギリスの植物学者ロバート・フォーチャンは、世界を歩いてきても、見たことも無い程膨大な量の植木の需要がある江戸は、世界一緑豊かな都市だと
言った記録が残っています。
 
 ちなみに、江戸の町人で一番多かった職業は植木職人だったのです。

 奈良時代以降の自然破壊のツケで17世紀の中頃までに日本の原生林はほとんど無くなってしまい、今と同じように 森林は荒廃していました。樹木の無くなった山からは土壌が流れ出し、少し大雨が降ると洪水が起き、降らないと川が干上がってしまう、水質は悪くなるし、川や沿岸からは魚介類が減ってしまった。

 江戸幕府は全国に造林を推奨した。

 造林された広葉樹の森では枯葉、昆虫、鳥、ミミズ、バクテリアなどが肥沃な土壌を作った。もっとも厚さ1cmの良質の土壌が出来るのに100年かかるそうが、良質の土壌は大量の水を保水し、栄養豊かな水を川に供給した。良質の土壌はまた良い樹木を育て、樹齢200年のブナは8トンの水を蓄えると言われるように、森林が緑のダムとなった。1ヶ月くらいまったく雨が降らなくても、川も水田も十分な水に満ちていた。栄養の有る水が海に注ぐと沿岸には多くの魚介類が育った。
 水辺リにも積極的に森林を造林した。そうすると魚が多く獲れるらしい。

 こうした森林と土壌と川や沿岸の魚貝類の成育との関係は寺子屋でも教えたらしく、教材が残っている。
 森林を守ることが、日常生活に必要な「読み書きそろばん」と同じく重要視されていたのは、
特筆すべきことだ。

 外国船が日本に寄りたがった理由のひとつに、船に積む飲み水があった。中国や韓国で積んだ水は、赤道に着く前に腐ってしまったのに比べ、日本から積んだ水ははるかに長期間もった。
 江戸の道路は、一部の神社仏閣の参道や、四谷の大木戸など、ごく一部が石畳であったことを除いて、砂利を入れて固めただけの無舗装で、道路わきには雨水を流す側溝を設けて水はけを良くした。
 
この舗装していない道路が、 夏の江戸の街の自然の空調設備であったと言う説を唱える先生がいる。 

 店主が小学校の頃(1956〜1961)、道路はまったくと言うほど舗装されていなかったが、ほとんど自動車が通行しなかったので、道路に関して何かひどく困ったと言う記憶は無い。

 往来するのがほとんど人間だけだった江戸でも、さほど困ることは無かったようである。

 アスファルトの道路は真夏の炎天下では55℃以上にもなる、乳母車の赤ん坊が熱射病になってしまうこともあるくらいだ。同じ場所でも土の上なら10℃は低いし、打ち水をすればさらに5〜6℃涼しくなる。

 最近、地域全体が同時に打ち水をして、気温を1℃でも下げようと言う市民運動が起きているが。                そのホームページhttp://www.uchimizu.jp/

 江戸では暑くなれば自然にあちこちで打ち水がされたし、その効果があがったのも、舗装していない道路だったからである

 現代のヒートアイランド現象も、全てがアスファルトで舗装された道路と鉄とコンクリートだらけの町並みに、一人当たり江戸時代の100倍以上消費しているエネルギーが原因である。
 1974年第一次オイルショックの年、バーレル2ドル以下だった原油価格は10ドルに跳ね上がり、その後35ドルまで上がった後13ドルから19ドルで長期安定した後、中国、インドなどの需要の増大から55ドルを突破、投機筋の情報として100ドルは通過点、150ドルもある
との事です。そればかりか埋蔵量そのものが30年とか40年とか言われています。
 
 欧米ではいち早く、化石燃料から風力発電やソーラー発電に切り替えようと行動しています。問題の多い原子力発電からも撤退しようとしています。
 
 第一次オイルショックの直後、政府から「ムーンライト計画」なるものが発表されました。
 月の光さえエネルギー源に利用して、化石燃料に頼らないエネルギーシステムを官民総力を挙げて取り組むと言うものでしたが、原油価格が下がって安定してくると、いつの間にか「喉元過ぎれば」になってしまいました。もっと緊急性の高いテーマだったはずです。
 
 西暦535年、インドネシア島とスマトラ島の間の火山が大噴火を起こし、火山灰が1年以上の間世界中からさんさんと降り注ぐ太陽光を奪ってしまいました。さながら月ぐらいの明るさだったと言う記述も残っています。普段当たり前のように受けていた太陽の恵みを失った時人類はどうなったか。

 日本書紀を初め、中国や東ローマ帝国の歴史書の中に洪水、旱魃、ペストなどで4人に1人が死んだとか、道端に死体がごろごろしていたとか、地獄の様相が描写されているそうです。この事が原因でその後の歴史に大きな変化が起きたと言われています。

 年輪を調べた結果、地域によって違いがあるものの5年〜20年間樹木の成長が全く無いか極端に悪かった事が分かっています。
 
 天照大神の神話を持ち出すまでも無く、太陽エネルギーが全てなのです。
 自然科学の知識が今より劣っていたと思われる江戸時代の方が、はるかに理想に近いエコロジー社会だったと言うのは、大いに参考にすべきです。
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■江戸はリサイクル社会
 太陽の恵みを植物に蓄え、食糧や燃料、照明に、生活用品に利用し、最後は土に戻っていく。何百年でも繰り返せるリサイクルシステムで江戸の社会は成り立っていた。

 江戸の食料は近郊で採れる米(大阪からも運ばれた)、野菜、川や海の魚介類が主であった。当時どんなおかずを食べていたか、記録によると人気のあった順に、
野菜の部 八杯豆腐、昆布と油揚げの煮物、きんぴらごぼう、煮豆、焼き豆腐のすまし汁、ひじきの白和え、切干大根の煮つけ、芋がらと油揚げの煮つけ、油揚げの醤油焼き、小松菜のお浸し、
魚貝の部 いわしのめざし、貝のむき身と切干大根の煮物、芝えびのからいり、まぐろの味噌汁、コハダと大根、たたみいわし、いわしの塩焼き、まぐろの薄切り、かつおの塩漬け、ニシンの塩漬け、
 江戸時代の中期には外食産業が花盛りとなった、鰻の蒲焼、にぎり鮨、てんぷら、そば、おでん、どじょう鍋などである。

 食べるともよおすものは、共同の汲み取り便所に溜められて、農家が定期的に対価を払って引き取った。この下肥は嫌がられるどころか、大変貴重な商品で、長屋の大家は住人の下肥を売って馬鹿にならない現金収入になった。専門の問屋や、小売まで出現し、相場が上がって大騒動にもなった。

 農家は藁や落葉と下肥から堆肥をつくり、作物の肥料にして収穫を増やした。出来た作物は江戸で食され、再び下肥になるというリサイクルが二百数十年間行われた。
 江戸時代の基幹産業は稲作である。総人口3000万人のうち80%が稲作に従事し、450万トンが毎年収穫されたと推定されている。国民一人当たり150Kgの米が食べられることになるので、平年作であれば飢えることは無かった。

 トラクターも無かったから、能率が悪かっただったろうと思うかも知れないが、エネルギー効率を比べて見ると、江戸時代の方が15倍勝っていた。
 すなわち、現代農業の大部分を占める機械の燃料のエネルギーを計算すると、1キロカロリーを使って1.1キロカロリー分の米を生産することになるが、人力が大部分の江戸時代は労働時間こそ長かったが、人力1キロカロリーを使って15〜16キロカロリー分の米を作っていたのである。
 またダイオキシンを含む農薬を何十年も使い続けて環境を汚してしまった現代に比べ、江戸時代は人糞、落葉、ワラなどを材料に作った堆肥や灰を肥料に、広葉樹の豊かな森林の土壌や岩石から栄養やミネラルをもらたった水を絶えず供給することと太陽の恵みで、環境的にもエネルギー効率的にも現代よりはるかに素晴らしい稲作を行っていた。

 米と同じくらいの量の藁が採れるから、国民一人当たり150Kgが生活用の材料として使えた。 50%は肥料に、30%は燃料に、20%が生活用品の材料になった。

 身の回りは藁製品があふれていた。
 編笠、蓑、藁草履、わらじ、俵、こも、釜敷き、どびん敷き、鍋つかみ、藁苞、藁葺き屋根、縄、畳床、むしろ、かます、土壁の補助材、家畜の敷き藁。使い終わればそのまま腐って肥料にもなるし、燃やせば灰になって、肥料や化学工業の材料になり、最後は土に戻って、リサイクルされる。

 もうひとつ身の回りにあふれていたのが、竹製品である。竹は数ヶ月で一人前に成長してしまう、実際は2年から4年ものを使ったが、木材に比べて驚異的なスピードで生産できるうえに、優れた性質を持つ材料である。
 笛や尺八のような楽器、ざるや、籠のような容器、釣竿、物干し竿、建築用材や足場、物差し、筆、筆立て、竹馬他子供のおもちゃ、いくらであげられる。皮は食品の包装材、木版印刷のバレンに使われた。
 そして使い終われば自然に土にかえる。灰になれば肥料になるし、化学工業の材料にもなる。
 着物もリサイクルのお手本になる。

 江戸時代にはそれまでの麻から作った布に代わって、肌触りのよい木綿が普及した。木綿は綿を栽培し、出来た綿花をつむいで、綿花糸にし布に織っていく。

 高級なのは絹で、栽培した桑の葉を蚕に食べさせ、蚕が吐き出して作った繭を使って繭糸を作り、生糸から絹糸になって絹織物になっていく。

 どちらも植物を太陽エネルギーと水と肥料で育て、人力と化学処理用に灰を使うだけで手間ひまかけて着物にしていく。

 需要に生産が追いつかないので、市場に出回っていたのは古着が主であった。古着しか着たことが無い人も大勢いた。痛まないよう大切に使い、子供や孫にまで回す事も珍しくありませんでした。何度も仕立て直して使い、つぎはぎやうす切れが目だってくると家の中だけの着物に、よくよく着られなくなると、おむつや雑巾にした。最後は腐って肥料になるし、燃やせば灰になって土に変える。

 スイスで生活した知人が言うには、成長の早い子供用の衣類はリサイクルショップで調達するのが普通で、大切に使って用が無くなるとリサイクルショップに売るそうです。

 世界一リッチと言われるスイスはそうなる前、ヨーロッパ一貧しくて、それゆえの悲劇の歴史を持っています。その時のことをリッチになっても忘れずに、物を大切にするスイスの人たちに学びたい。
 アルミ缶やペットボトルのリサイクル運動が盛んです。ただ今のシステムがずっと継続可能か考えてみると、疑問に思う。
 
 リサイクルアルミ缶はボーキサイトから作るのに比べ、エネルギー消費が2%だという。ペットボトルも再生するコストは原料代よりはるかに安いから、省エネルギーだと言う。
 消費者全員が空き缶をリサイクル工場に歩いて持ってくるとその理論は成り立つかもしれない。
 しかし、エネルギーの収支だけを考えると今の収集方法では運搬のトラックの消費エネルギーがリサイクルの成果を数倍上回って、逆効果になる。

 手間と時間はかかるがエネルギーは使わない、そんな運搬方法は無いだろうか。
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■江戸はボランティア社会
 江戸の行政はボランティアで成り立っていた。

 なぜ、120万人の治安が24人の与力、同心で守れたか。
 まず行政の仕組みを理解しなければならない。
 
            町奉行
                   武士と僧侶以外の町人五十数万人の行政トップ機関
                   行政の方針を示したり、大きな違反事件を取り締まったり
                   凶悪事件を裁いたりするだけ。最高裁の役目
                   290人(そのうちの与力、同心が24人)
            町年寄
                   民間のトップ機関、奉行の方針を民間に伝達、人別帳制作、
                   住民登録の集計、不動産登記、商人、職人の統制、町人の
                   紛争の調停など実務の大部分を町名主にさせて監督した。
                   高裁の役目 
                   奈良屋、樽屋、喜多村の3家の世襲
                   幕府からの報酬は無し、江戸開府の時もらった土地を貸して
                   家賃を経費に当てた。
            町名主   
                   町年寄の実務を実際にやったのは町名主であった。
                   町人の揉め事は町名主の屋敷の玄関先で調停される事が
                   多く、町奉行まで持ち込まれる事はまず無かった。簡易裁判
                   所の役目
                   江戸末期には280人、専業で大半が世襲だった。
                   報酬は町人が払った地代や家賃の中に含まれる「町入用」
                   (ちょうにゅうよう:町会費のようなもの)から払った。 
            大家    
                   地主や家主から報酬をもらって、借地や借家の管理をするの
                   が本業。5人1組で「5人組」をつくり1ヶ月づつ交代で自身番
                   に詰めて、末端の行政を行った。
                   自身番は町会事務所、公民館、派出所、消防署、町内の溜
                   まり場であった。
                   担当した大家の仕事は、お上からの伝達、人別帳制作、
                   不動産登記、揉め事の仲裁、留置した罪人の見張り、道路
                   の掃除、修繕、夜回り、火の番、捨て子、行き倒れの処理。
                   簡易裁判所の前の相談所みたいな役目
                   2万人の大家が5人組を組織
                   当番の1ヶ月はこれだけ多忙なのに、無報酬つまりボランテ
                   ィアであった。
            町火消   
                   本職は鳶
                   火事の時に集まって消防隊を組織する。
                   鳶の他、町内の力仕事、井戸掃除、どぶさらい、正月の飾り
                   つけなどの雑用係り。また外部から来た歓迎できない者から
                   町内の者を命がけで守った。
                   11組に分けられ1万人が活躍した。
                   火事出動の際には手当てが出た。普段は鳶職としての収入
                   町内のために働いたので「町入用」からわずかな報酬をもら
                   った。
                   命がけで働く割には手当ては少なく、ボランティアに近い。
                   しかし、女性にはもてる、若者はあこがれる、年寄りから頼り
                   にされるなど、生きがいがあった。

 つまり、2万人の大家が役場、1万人の町火消が警察、消防、便利屋をやって行政が成り立っていた。ほとんどボランティアであったのにシステムが継続できたのは、現代のように、子供でも「世の中で一番大事なのはお金」と言う世界には理解でない、お金ではない大事なものが当時の社会を動かすエネルギーだったからである。
 

江戸時代に日本を訪れた外人が残した見聞録には、良く手入れされた田畑、山林、河川、海岸、清潔な町並み、粗末だが清潔な服装などと共に、おおらかで、親切で、礼儀正しく、子供や弱者を大切にし、名誉を重んじ、物欲に希薄な日本人がよく描かれている。

今より、ずっと武士道や儒教の浸透していた時代だったので、個人主義の強い欧米人にはカルチャーショックだったらしい。

明治時代に新渡戸稲造によって欧米に紹介された「武士道」はルーズベルト大統領が、二人の息子に座右の銘にするように贈ったとされている。

ケネディ大統領の就任演説の一節「国民は国家に何をしてもらうかではなく、国家のために何が出来るかを考えるべきだ」は「武士道」からの引用だったと言うのは有名な話だ。

さらに、今の日本からは想像も出来ないが、当時の欧米人より、あくせくせずにゆったりと生活を楽しんでいる様子が描かれている。

今の日本人には考えられないほど、崇高な人生観に支配されていたようだ。

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■家康はなぜ江戸を選んだのか
これまで、中世の江戸は家康が入るまで太田道灌が築いた城以外は特筆する事もない小さな漁村であったとされ、先見の明があった家康が江戸を選んで発展させたとされていた。

しかし、近年の研究で違う家康以前の江戸の姿が見えてきた。
江戸と言う地名だが、中世の港湾都市には津、湊、浦、戸などが付く地名が多かったが中でも戸が付く地名が最も多かった(今戸、花川戸、鳴戸、水戸、浦戸など)

江戸は日比谷入り江の船が泊まる所からそう呼ばれたらしい。

品川は伊勢、熊野を出発点とする太平洋海運の終着点として栄えていた。
また、浅草、葛西は利根川、常陸川で北関東の奥地にまで到る水系の出発及び終点として栄えていた。

その中間にあった江戸は太平洋海運と北関東水系の中継点として平安時代から栄えていたらしい。

江戸と言う名が初めて歴史書に登場するのは鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」の1180年8月26日条で、源頼朝が挙兵をした際、平側として源頼朝と戦った江戸重長の名が記載されている。
後に源頼朝に味方して、大いに頼りにされた。

江戸重長は皇居、東京駅、日本橋あたりを支配し、武将としてだけではなく、数千艘に及ぶ船を支配下に置く大商人で、源頼朝をして「八カ国の大福長者」と言わせたほどで江戸は栄えていたのである。

中世の関東地方は利根川を挟んで気質の違う武家社会が対峙していた。
利根川の北東側は平将門に見られるように、中央からも、お互いからも独立心が強い規模の大きな豪族が乱立していた。
南西側は中央に従順で、小規模の豪族同士が理念を共有する傾向が多かった。

源頼朝が鎌倉に、北条層雲が小田原に中心を選んだのも、利根川の南西側に深く入り込んだ位置が安心できたと思われる。

室町時代の関東は、鎌倉公方(足利家)が治めていたが、中央幕府に任命された関東管領(上杉家)が目付け役となっていた。
1454年足利成氏が上杉憲忠を殺害して古河に遁走して、古河公方となり、利根川を挟んで北東側の古河公方と南西側の関東管領(上杉家)の対立の図式となる。

太田道灌は上杉の家臣として、古河公方に対する最前線として、1456年江戸城を築いたのである。

北条家が台頭してくると、関八州を支配しようとする南西側の北条家に対し、関東管領から家督を譲られた上杉謙信が北東側の豪族と手を組んで、度々兵を挙げた。
1568年、武田信玄が今川との同盟を破ると、北条と上杉は同盟を結び、北条による「関八州国家体制」が出来る。

これにより、利根川を挟んだ北東側と南西側の対立は無くなる。

「関八州国家体制」を継いだ家康は水運の便が良く、後背地の大きな江戸に京都以上の大都市を築こうとしたのである。
参考文献
家康はなぜ江戸を選んだか   岡野友彦【著】
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江戸の香りがする風呂敷
【今、風呂敷が新しい!】
最近の和柄ブーム、「洋服に合う和小物」が流行しているのはご承知の通り!
そんな中でも日本古来のアイテム、風呂敷が実はひそかなブームを起こしてるって知ってましたか?

古臭い。。。海外のお土産。。。と思ってるなら、その認識は間違い!!
だって日本だけで年間数十億の売上があるのが風呂敷市場。

和服に似合う古き良き和風柄だけでなく、
若手の新鋭アーティストがデザインを手がけた作品も続々登場しています!

エコロジー、おしゃれ、便利。。。そのきっかけは様々ですが、
「家では手ぬぐいしか使わない!」
「実は鞄の中にいつも風呂敷を入れています!」
なんていう方々がたくさんいるのです。
写真をクリックするとお買い上げいただくこともできます。
 
■日本製高級風呂敷■丹後ちりめん浮世絵風呂敷[二巾]■
 舞妓  百人一首
   
英泉美人 鏡獅子
   
写楽  六歌仙美人
   
 かんざし 扇子美人
   
 春待ち美人 二人美人
   
 三人美人 うちわ美人
   
 祇園祭 浅草
   
 鳴海 岡崎
   
浦原  川崎
   
 品川 日本橋
   
北斎浪 赤富士
   
【箱入り】■日本製高級風呂敷■はいからもだん綿大ふろしき
 よろけ絞り散花(ブルー) よろけ絞り散花(ピンク)
   
寄裂古布(赤)  寄裂古布(紫)
   
斜め裂花尽くし(黒)  斜め裂花尽くし(オレンジ) 
  
【箱入り】■日本製高級風呂敷■はいからもだん友仙ふろしき[二巾]■
 貝合わせに桜散らし(グレー) 貝合わせに桜散らし(ピンク) 
 
 矢絣散花(紺) 矢絣散花(紫)
   
 立涌小紋に花玩具(金茶) 立涌小紋に花玩具(ピンク)
   
 万華鏡(利休) 万華鏡(ベージュ)
   
雪輪に鞠と花尽くし(セイジ)  雪輪に鞠と花尽くし(ピンク)
 
霞花模様(ベージュ)   霞花模様(ピンク)
   
 流水花音(利休) 流水花音(ピンク)
   
 斜め寄せ裂(紫と青) 斜め寄せ裂(金茶と紫)
   
雪輪重ねに菊花文様(紫)  雪輪重ねに菊花文様(赤)
 
立取り花くす玉(紫) 立取り花くす玉(赤)
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