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江戸に関した、話のネタになりそうな軽い一口話を集めて見ました。
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■江戸の家庭料理 |
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江戸の庶民は何を食べていたか。
朝は炊きたてのご飯に味噌汁に漬物が一般的で、朝、棒手振が売りに来る納豆や豆腐があれば贅沢な方だ。
昼ご飯は朝炊いた冷や飯と味噌汁に漬物で簡単に済ませる。
そのため漬物は大根、茄子、フキ、竹の子などの材料の味噌漬け、粕漬け、糠漬け、奈良漬け、千枚漬け、沢庵などバラエティに富んだ欠かせない食材だった。
夕飯は一番奮発して、棒手振が売りにきた各種煮物、焼き魚で栄養を付けた。
棒手振が売っていたものは他に、あさり、しじみ、ハマグリ、ばか貝、小松菜、からし菜、瓜、茄子など。参考までに江戸の行商人
江戸の初期にはご飯は玄米だったので、ご飯に味噌汁に漬物に、たまに納豆、豆腐と魚で必要な栄養を摂取する事は出来たが、中期の元禄の頃から白米が多く食べられるようになると、ビタミン不足に陥って、脚気が大流行した。
ビタミンBの不足が脚気の原因だと分かるのは明治時代になってからだが、江戸に住んで脚気になっても、地方に帰って玄米食に戻ると脚気は治ったので、「江戸わずらい」と呼んで恐れた。
そのためにおかずのバラエティを増やして必要な栄養を摂る必要性に迫られたと見られる。
野菜類で人気があった食べ物は、八杯豆腐、昆布と油揚げの煮物、きんぴらごぼう、煮豆、焼き豆腐のすまし汁、ひじきの白和え、切干大根の煮つけ、芋がらと油揚げの煮つけ、油揚げの醤油焼き、小松菜のお浸しなど。
魚貝類で人気があったのは、いわしのめざし、貝のむき身と切干大根の煮物、芝えびのからいり、まぐろの味噌汁、コハダと大根、たたみいわし、いわしの塩焼き、まぐろの薄切り、かつおの塩漬け、ニシンの塩漬けなどで、江戸時代の後半はかなり色々な物が食べられた。
江戸時代の中期には外食産業が花盛りとなった、鰻の蒲焼、にぎり鮨、てんぷら、そば、おでん、どじょう鍋など、今の外食産業さながらの繁盛ぶりだった。
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■江戸の婚活 |
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婚活という言葉が話題になっている。
江戸時代にも婚活はあったのだろうか。江戸時代の結婚は大抵は見合い結婚だった。そこで活躍したのが仲人で、商売をしながら仲人を副業にしたり、仲人を商売にしていた人もいた。
現代でも会員制の結婚相談所があって、結構お金がかかるらしいですが、江戸時代の仲人は結婚が決まると持参金の1割が謝礼として貰えたので、熱心だったようです。
男は23、4歳から30歳までには結婚し、女は15、6歳から20歳までには結婚したようです。20歳を過ぎた女性は本人も親も相当焦って相手を探したようですから、仲人の出番があったようです。
持参金は一般には5両(50万円)から10両(100万円)が普通とされていたが、大店の娘の持参金は500両にもなったというから持参金目当てに結婚する男もいたろうし、仲人も1割の謝礼目当てに血眼になったはず。
仲人を副業にしていた商売で有名なのが町医者で、患者の家庭の事情にも詳しいことから釣り合う家と家を仲介するにはもってこいだった。「大和慶庵」という医者が上手に仲人をして縁結びをして有名だったことから、仲人を指す「慶庵」または「桂庵」という言葉が残ったとか。
持参金を持たせれるのは裕福な方で、裏長屋に住む多くの庶民は持参金はごくわずかかか無しで、仲人にも相手にされず、せいぜい大家が働き者に嫁を世話するくらいだった。
明治4年に作られた戸籍によると、江戸の男女比率は男3対女1だったようだから、男が結婚できる機会は少なかったようだ。女は三行半をもらって離縁すれば、再婚の口はあっようだ。
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■江戸のリサイクルショプ |
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現代はリサイクルショップが大流行である。
ホームレスから身を起こし年商100億円のリサイクルショップのチェーンを経営する実業家がテレビによく出演したりする。
ご婦人は飽きたブランド品を持ち込んで換金したり、中古のブランド品を買ったりする。
実は江戸時代こそリサイクルショップ全盛だったのだ。
江戸時代の武家社会は贈り物無しでは成り立たない社会だった。
参勤交代の諸侯は江戸に上るたびに将軍に土産を献上する。家臣は藩主や上司に贈り物をする。
商人は出入りの武家屋敷につけ届をする。
といった具合で、贈答品があふれていたが、自分で食したり、使いきれないものは邪魔になってしまう。
そこで、「献残屋」(けんざんや)と言う商売があった。
献上品の残ったものを扱う店と書いて「献残屋」と言い得て妙である。
扱った品物のうち多かったのは食品で、あわびのし・干し貝・からすみ・うになどの高級珍味は何度でも再生した。
献上品を載せる檜台や桐箱なども飾りを変えて、新品同様に生まれ変わらせました。
物価が上がるのに収入の増えない武士たちには換金したり、贈答品を安く手に入れるのに便利な場所だったようです。
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■江戸小紋 |
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江戸小紋と言えば粋な着物の代表であるが、派手な色彩の友禅に対して単彩の濃淡を生かして小さな模様を一面に染抜きし遠くから見ると無地に見えるが、近くで見ると手の込んだデザインが江戸っ子の粋を主張する。
江戸庶民に広がったのは江戸中期からで、男女の区別なく好んで使われた。
もともと、武家が自己主張するために裃に独自の小紋柄を染めて他に使用することを禁じた。
模様を染めるには型紙が必要であるが、型紙作成は高い技術が必要で独占的に紀州家(伊勢)が行っており、庶民に広がった後も型紙作成は伊勢で行われた。
独自の小紋柄は例えば、徳川家は「松葉」や「御召十」、紀州徳川家は「極鮫」、細川家は 「梅鉢」、島津家は「大小霰」、前田家は「菊菱」、武田家は「武田菱」などがある。
他に「行儀」、「角通し」、「花菱」、「万筋」など。
庶民はかたくるしい武家の裃になかった庶民の生活に根ざした独自の模様を作って行く。
「初夢」、「宝尽くし」、「小桜」、「大根おろし」、「大金とおろし金」、「さるかに合戦」、「餅つき」、「羽黒山」、「厄除け」、「手まりと羽子板」、「矢羽根」、「住吉踊り」、「魚と包丁」、「鋏」、「扇」、「十二支」、「家内安全」、「江戸、京、大阪」、「雪月花」などである。 |
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■江戸鮨 |
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江戸の庶民は現代と同じで外食が大好きだった。
天明年間(1772〜1788年)の頃から間口1間ほどの屋台店が江戸中の通りに立ち並び人々で賑わった。
手軽に食べられて、値段が安い人気のメニューは鮨、蕎麦、天麩羅、烏賊焼き、大福餅、汁粉などであったが、江戸末期にはやはり一番人気は江戸で生まれた握り鮨だった。
鮨と言えばもともと、馴れ鮨のことで塩漬けの魚とご飯を重ねて重石で押し発酵させたもので、食べられるようになるには時間がかかった。
延宝年間(1673〜1680)に上方からやって来た医者によって早鮨が伝えられるとたちまち流行した。早鮨は酢飯に魚を乗せて一晩押せば食べられるものだった。
文政年間(1818〜1839)には花屋与兵衛が今の握り鮨を考案して、せっかちな江戸庶民に大人気となった。
ネタは海老、鯛、コハダ、干瓢を使った玉子巻き、海苔巻きなどで、一貫100円から200円で食べられたから、仕事の合間や帰宅途中などに手軽に立ち寄れた。
漢字では鮨、鮓、寿司の三つが表示される。
鮓はもともとは塩・麹・糟で漬けた魚のことを言い、鮨は中国で「魚の塩辛」を意味する文字であったが鮓と鮨は混同されて使われてきた。
寿司は江戸中期から使われ始めた、めでたさを表わす当て字である。 |
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■風呂敷 |
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風呂敷が風呂敷と呼ばれるようになるのは、江戸中期以降でその名の由来も江戸時代の風呂文化の発展と関わりが深い。
江戸時代は裕福な家でも内風呂はなく、誰でもが湯屋(銭湯)にほぼ毎日通った。
そのため町内に1、2箇所は湯屋があった。江戸時代の初期は蒸し風呂で、男は湯ふんどし、女は湯巻をまとって入った。混浴である。江戸時代中期には浴槽に湯を張るようになり、素っ裸で入るようになるのは宝永年間(1704〜1710)頃からだと言う。
浴室の入り口は、湯が冷めないように床から90センチほどの高さを開けっ放しにして、ここをくぐって出入りした。
中は薄暗くて、殆ど顔も分からないほどだったらしい。
料金は大人250円、子供150円くらいだったらしい。
この湯屋に行くのに必要なものを包んでいったので風呂敷と呼ばれるようになった。
風呂敷の歴史は古く、正倉院に日本最古の風呂敷が現存する。裹(つつみ)、平包み(ひらつつみ)などと呼ばれていた包み布で、僧侶の袈裟や楽器、薬の収納に用いられたとされる。
平安時代、935年にまとめられた『倭妙類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)』には、装束を包んだ古路毛都々美(ころもつつみ)という包み布が記されている。
室町時代、足利義満が京都に建てた大湯殿で諸国の武将たちをもてなした折り、脱いだ衣服を間違えないよう家紋入りの袱紗に包み、湯上がりにはこの袱紗の上で身繕いをした伝えられている。
江戸時代の中期以降、庶民の暮らしが活発になり、商いに、旅に風呂敷の出番が増える。
行商が栄え、貸本屋、蚊帳売り、小間物屋など、風呂敷包みを背負って運ぶ商人の姿が風俗画に描かれている。
ロゴマークを入れた風呂敷も登場し、宣伝役も務めるようになる。
江戸に店を開いた上方商人が屋号を染めた風呂敷を作る。これが大評判を呼び、たちまち広がったのだそうだ。風呂敷は三越、ハンズや良品生活の紙袋や包装紙であり、広告宣伝の道具ともなった。
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■武士の内職 |
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時代劇には色々な内職が出てくる。
武士の俸給は昇給しなかったから江戸時代も中期になると物価ばかりが上昇して武士は困窮していた。
そのため、内職無しでは生活できない武士が多かった。
武士の仕事は丁寧で評判は良かったが、商才が無いためマネージャーの下で一職人として与えられた仕事をする事で収入を得ていた。
表向き武士の内職として許されていたのは、武芸や読書き指南、髪結い、刀研ぎ、百姓などであったが、実際には他に様々の内職をしていた。
どんな内職があったかと言うと、傘づくり、つつじづくり、朝顔づくり、金魚の飼育、鈴虫やこおろぎの飼育、楊枝削り、竹細工、玩具づくり、根付づくり、凧づくり、団扇づくり、提灯づくり、各地の地場の民芸品づくりなどです。
マネージャーの都合上、同一地域にまとまる事が多かった。
例えば、青山界隈では傘づくりが盛んで問屋が20軒もあった。
新宿区百人町界隈はつつじの栽培が盛んで季節には見物人が大勢集まる名所になっていた。
江戸川流域では金魚の飼育が盛んだった。
千駄ヶ谷では鈴虫やこおろぎの飼育が盛んで、虫篭も作られた。
その後明治時代以降地域の特産品に発展していくものも沢山あった。 |
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■江戸の蕎麦 |
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時代劇にはよく立食い蕎麦屋が出てくる。
江戸庶民に最も愛されたファーストフードだった。
蕎麦は奈良時代に中国から朝鮮経由で伝わって栽培が始まった。
最初は餅にして焼いて食べる事が一般的だったが、やがて蕎麦掻きにして汁を付けて食べるようになった。
今のように細長くして汁を付けて食べるようになったのは慶長年間(1596〜1616年)の頃で蕎麦粉100%だった。
つなぎに小麦粉を使うようになったのは享保年間(1716〜1735年)からでうどん屋が片手間に蕎麦を売っていたが、その内蕎麦が主となり蕎麦屋がうどんも売るようになった。
庶民は屋台で食べる事が多かった。
値段は最初6文(150円)だったが後に16文(400円)で定着した。
夜遅くまで流して歩いた蕎麦屋は夜鷹蕎麦と呼ばれ、夜食によく利用された。
次第にバラエティにとんだ蕎麦が考案され、かけ、もり、だけでなく、てんぷら、花巻(もみ海苔)、玉子とじ、しっぽく(玉子焼き、しいたけ、かまぼこ、くわい等のトッピング)等があった。
庶民のみならず、江戸大奥の女中たちにもよく食べられたそうだ。
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■江戸のゴミ |
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江戸時代、外人が江戸の町を見てゴミ一つ落ちていない綺麗な町だと驚いたが、江戸も初期の頃はゴミがうまく処分出来なかった。
江戸の初期の頃は家の近くの、空地、崖下、川、堀、などに勝手に捨てていた。
町中不法投棄の汚い町だったのである。
堀はゴミで埋まって、船の往来に支障をきたす有様だった。
そこで1655年江戸幕府は川筋にゴミを捨てる事を禁じて、ゴミ処理のシステムを整備した。
裏長屋の空地に共同の「芥溜」を、町ごとに「大芥溜」を設けた。
「大芥溜」からは専門業者が船で永代島に運んだ。
その運賃は表長屋の住人が間口に応じて負担した。
裏長屋の住人は負担しなかった。
後に永代島に捨てる場所が無くなると、ゴミ捨て場は深川越中島後に移された。
埋め立てによって土地が造成されたのは今と同じだ。
埋め立てといえば、徳川家康が江戸に来た頃、日比谷のあたりは入り江だった。
それを神田の高台を切り崩して埋め立てて今のようにしてしまったというのだから江戸の初期の土木工事は凄かった。 |
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■江戸庶民の読書 |
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イギリスの外交官が幕末に日本を調査に来て、本国にこんな報告をしている。
「東南アジア、中国と違って、日本を植民地にすることは不可能だ、自分たちより文化の高い国を植民地にすることは出来ない。
日本では、女、子供までもが街中で本を立読みしている。
イギリスやヨーロッパ諸国では字が読めるのは一部の特権階級だけなのに、この国では誰でも字が読めるのだ。
世界中回ったがこんな国は日本だけだ。」
日本では寺子屋の就学率は70〜85%だった。イギリスの大都市圏の20%に比べても初等教育のレベルの高さは世界一だった。
では江戸の庶民はどんな本を読んだのだろう。
本格的な本である草子に対して、装丁が簡単で一般的な内容のものを草双紙と呼んで庶民の愛読書となった。
草双紙は表紙の色によって種類が分けられていた。
赤本
表紙の赤い本で最初子供用の絵本だけであったが、浄瑠璃のダイジェスト、流行唄集など大人を対象とするものも出るようになった。
「かちかち山」「桃太郎」「舌切り雀」などは赤本で広まった。
青本 黒本
朱の染料が値上がりして使えなくなると、草の汁で染めたり、もっと安価な黒い表紙が使われるようになる。内容も歌舞伎、歴史、伝記のダイジェストなど大人向けが多くなっていったが、絵が主で、文はその説明に過ぎなかった。
黄表紙
表紙が黄色で内容は洒落や滑稽を交え、文章が中心の成人向きの文学として読まれるようになった。
合巻
黄表紙5、6冊分をまとめた長編物で値段が高くて買いきれないので十分の一程のレンタル料で、貸し本屋で借りる事が多かった。
江戸には6500軒の貸本屋があったと記録にある。
「東海道中膝栗毛」「南総里見八犬伝」「好色一代男」「浮世風呂」などは合巻でベストセラーになった。
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■江戸庶民の旅行 |
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江戸時代後期の庶民の楽しみの一つは旅行だった。
江戸時代は窮屈な時代で、旅行も余程の覚悟がないと出来ないと思われがちだが、どうも思ったより気軽に旅行が出来たようだ。
参勤交代のために街道が整備され、旅籠や茶屋も沢山出来たので庶民が旅をするのには便利になっていった。
江戸幕府は庶民の自由な旅行を禁じていたが、伊勢参りのような信仰の旅は許可していた。
もちろん、往来手形と、関所手形が必要であったのは言うまでもないが。
伊勢参りを口実に旅に出て、途中の温泉や観光を楽しんだり、京都、大阪まで足を伸ばしたりもしたようだ。
移動手段はもっぱら歩きで、男が1日40キロ、女が1日25キロは歩いたそうで、「お江戸日本橋七つ立ち」とあるように早朝日本橋を出発して、その日のうちに品川に到着して一泊するのが普通だった。
費用は旅籠代が1泊5000円くらいで、その他合計でも10日で7〜10万程度だった。
伊勢参りは一生に一度の夢だったようだが、鎌倉、箱根あたりは1週間くらいのコースで人気があったようだ。
長屋の熊さん八っあんから百姓まで、旅をした記録が残っている。
行き先も、北は青森から南は長崎も人気があった。
随分旅を楽しんだようだ。 |
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■江戸の大家 |
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「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」
江戸の裏長屋に住む人々はそういって大家を頼りにしました。
そもそも、裏長屋は表店の経営者や職人の棟梁など資金に余裕のある人々が投資として、借家経営をしていたのですが、大家はその所有者に雇われて、裏長屋の管理一切を代行していた。
その仕事は非常に多かった。
賃貸の手続き、店賃の集金、出産や死亡、婚姻届け、離婚、隠居、勘当、関所手形の申請を行なった。
もし、自分の店子から罪人が出ると、連座制で大家も罰せられたので、長屋の側に住み良くコミニケーションをとった。
また大家は5人1組で「5人組」をつくり1ヶ月づつ交代で自身番に詰めて、末端の行政を行った。
自身番は町会事務所、公民館、派出所、消防署、町内の溜まり場であった。
担当した大家の仕事は、お上からの伝達、人別帳制作、不動産登記、揉め事の仲裁、留置した罪人の見張り、道路の掃除、修繕、夜回り、火の番、捨て子、行き倒れの処理。
簡易裁判所の前の相談所みたいな役目をした。
2万人の大家が5人組を組織当番の1ヶ月はこれだけ多忙なのに、無報酬つまりボランテ
ィアであった。
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■江戸時代の歯磨き |
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江戸の朝、長屋は明け六つ(午前6時)に木戸が開き、活動が始まる。
さて、起き抜けに顔を洗い歯を磨くが、今のように歯ブラシに歯磨き粉とはいかなかった。
歯ブラシは房楊枝と言う物を使った。
柳の小枝の一端を叩いて潰して房状にした物で、最初は自作していたが江戸中期には売る店も現れた。
歯磨き粉は平安時代から焼塩が使われたそうだ。
焼塩以外では房総砂(砂ではなく石灰の粉末らしい)にはっか、胡椒、唐辛子などを混ぜたものも広く出回っていた。
ところで、焼塩は最初三河吉良(静岡県吉良市)吉良上野介義央の所領から献上する塩が使われていたが、5大将軍綱吉の頃赤穂の塩が大評判になり、吉良の塩を凌駕する事になった。
赤穂の塩は三河吉良の庄に家来を送り吉良家の精塩法を習い、改良した製法で作られたものだった。
忠臣蔵の裏にはこんな経済戦争の話があったのです。 |
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■江戸時代の化粧品 |
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江戸の中期になると町人は経済力をつけてきたのに伴い、役者や遊女の真似をして、おしゃれをするようになった。
それに応じて化粧品が登場した。
化粧水
米ぬかや小豆の粉を水に溶かしたもの、糸瓜の茎から採取したものが使われた。
白粉
原料は鉛白(炭酸鉛)で水で溶いて刷毛で塗った。ただし鉛なので身体に悪影響
があったらしく、薄く塗る人が多かった。
口紅
原料は紅花。
1712年の書物の中に濃紅練が出てくる。ただし、高価で「紅一匁は金一匁」と言われた。
小間物店、紅屋などの店や、行商人から購入した。安い物で、30文(750円)高いものでは
2両(20万円)もするものもあったらしい。
いつの時代でも女性は美しくなるためには金に糸目をつけない。 |
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